放射線1万ミリシーベルトの恐怖~もう原発はいらない2011年08月02日 23時12分53秒

昨日、福島第一原発の排気筒下部の配管表面付近で、毎時1万ミリシーベルト(=毎時10シーベルト)以上もの高い放射線量が計測されたと報じられました。この10シーベルトというのがどういう意味なのかをちょっと調べてみました。以下の記述は、「原発のウソ」(小出裕章著 扶養者新書)を参考にしています。

死者が出始める被曝量が2シーベルト、ほぼ半数の人が死ぬ被曝量が4シーベルト、ほぼ100%が死ぬ被曝量が8シーベルトだそうです。つまり、今回発表された場所に、数十分いればほぼ間違いなく全員が死んでしまうというくらいの高い放射線量だということです。

1999年、茨城県東海村の核燃料加工工場(株式会社JCO)で「臨界事故」が発生し、大内久さん(当時35歳)、篠原理人さん(当時40歳)が亡くなりました。そのときの被曝量は、大内さんが18シーベルト、篠原さんが10シーベルトでした。被爆した直後は、二人とも目に見える外傷はなかったということです。18シーベルトを被曝した大内さんは、病院に運び込まれた時には看護師さんとおしゃべりするほど元気な様子だったということです。

ただ、一つだけ違った点は、日焼けしたように肌が少し赤くなっていたこと。それが、被曝1ヶ月後には全身が焼けただれたようになりました。普通であれば、日焼けして皮膚がボロボロとむけても、DNAの遺伝情報により、その下から新しい皮膚が再生されます。しかしながら、強い放射線を浴びたことにより、大内さんのDNAはずたずたに切断されその再生能力を失ってしまいました。皮膚だけでなく、肉も、骨も、内臓も、体中の全ての細胞が再生されずに、生きる力を失ってしまいました。毎日10リットルを超える輸血と輸液を繰り返しながら、日本の医学界が総出で治療したにも関わらず、大内さんは苦しみながら亡くなりました。

事故から5ヶ月近くも経って、このように高い放射線を出す場所が発見されたことに驚きを禁じ得ません。他にもこのような場所があるのではないか、まだ知られていない場所から海や地下水などに高い放射能が漏れている場所があるのではないか、事故を沈静化するために必死で働いている労働者の中で、知らずに高い放射線を浴びている方がいらっしゃるのではないかなど、不安に感じざるを得ません。

いまだにテレビなどで原発の必要性を語っている「専門家」がいますが、いかなる理由を付けようとも、もう原発は絶対にいりません。

学童保育充実のための「超党派の勉強会」に参加してきました。2011年08月09日 23時28分07秒

今日、全国連協の紹介で、国会内で超党派の国会議員に呼びかけた「勉強会」に、報告者として参加してきました。

今回の「勉強会」は、自民党の馳浩議員とあべ俊子議員が呼びかけ人となって、超党派の国会議員に呼びかけて開催されたものです。タイトルは、「~子ども達に安全/安心の生活を提供するために~公的責任における『放課後児童クラブ(学童保育)』の抜本的拡充を!」というものです。今回は、「学校施設を活用した学童保育、学校・教育委員会との連携について」ということを中心的なテーマとして開催され、学校施設を利用して学校(教育委員会)との関係が円滑にいっている例として、元気っ子クラブが報告をすることとなりました。

 

呼びかけ人となったお二人の議員は、今回の勉強会の前に、厚生労働省、文部科学省、衆議院法制局を交え、2度の私的勉強会を行ったそうです、その中で、次のような3点が課題としてあげられたということです。きわめて的確に、現在の学童保育の問題点を把握されていると思います。

  • 学童保育の抜本的拡充をはかっていくためには、法的な位置づけが不可欠であること。
  • 指導員の処遇を改善し定着をはかるには、賃金の値上げとともに、その根拠となる一定の認定制度が必要であること。
  • 子どもの安全・安心を考えると、学校の敷地内または余裕教室の利活用が最善であること。

「超党派」という呼びかけではありましたが、参加者は、呼びかけ人お二人以外は、自民党の永岡議員、熊谷議員、共産党の宮本議員、田村議員だけでした。議員秘書の方は、4~5人参加していました。資料だけ持って行かれた議員の方もいらっしゃるようでした。行政は、厚生労働省からお二人、文部科学省からお二人、衆議院法制局からお一人参加されていました。

議論の中では、議員の中から次のような意見が出されました。余裕教室の活用や学校の建て替え時に、学童保育の設置を図ることは現行の文科省、厚生労働省という枠組みの中でも可能であるし効率的ではないか。指導員の待遇改善のためにも指導員の資格制度を作っていくことは不可欠である。80万人もの児童が預けられているのに、きちんとした資格制度がないというのは問題である。希望すれば6年生まできちん預けられるということを明確にしていくことも必要である。

今回参加されていた議員の皆さんは、学童保育のことを本当によく理解されていました。超党派ということで呼びかけを行ったお二人には、心から敬意を表します。今後も党派に関わらず多くの議員さんが、こうした「勉強会」に 参加され、学童のことを理解され、具体的な施策の前進につながっていってほしいと思いました。

最近見ているドラマ-「IS[アイエス]~男でも女でもない性~」2011年08月11日 22時54分05秒

日頃、テレビドラマはあまり見ないのですが、最近、テレビ東京でやっている「IS[アイエス]~男でも女でもない性~」というドラマを見ています。新聞に広告が載っていて、興味を持ったからです。

番組のホームページでは、「ISとは?」ということについて、以下のように説明しています。また、スペシャルというページでは、当事者の声も紹介しています。

インターセクシャル(インターセックス)の略称。性器、卵巣・精巣といった性腺、染色体等が男性型・女性型のどちらかに統一されていないか、または判別しにくい等の状態。

古くは半陰陽、両性具有などとも呼ばれました。ただ、「IS」「インターセックス」含め、これらの呼称は適切でないとする見解もあり、近年、医療分野では、こうした先天的疾患の総称として「性分化疾患」を用いるようになりました。

性分化疾患には先天性副腎皮質過形成症、クラインフェルター症候群、ターナー症候群等さまざまな疾患があり、その症状も個人によってまったく異なります。時には、結婚してから不妊で悩み、検査して初めて気づくようなケースもあります。また、その性自認も、男性寄りだったり、女性寄りだったり、中間だったり、あるいは男性寄りと女性寄りが時期によって変遷(「ゆらぎ」)したりと、一様ではありません。

性同一性障害は、身体的な性別がはっきりし、身体と自認する性が逆になるものであり、性分化疾患とは別のものです。

「半陰陽」、「両性具有」という言葉は知っていましたし、そういう人が実際にいるということも知っていましたが、2000人から4500人に一人生まれるとも書かれていて、思っていた以上に出生数が多いということにとても驚きました。

親にとっては認めたくないことで、本人がそれと自覚する前に手術をしてしまい、どちらかの性で育てることも多かったようです。また、上の説明にもあるように、本人もまわりも男性または女性と思い、結婚もしたけれど、不妊治療の中でIS(性分化疾患)であることがわかったなどの例もあるようです。日本では、まだまだ社会的な認知がなされておらず、無理解、差別、偏見に苦しんでいる人が多いようです。

原作は、2007年に第31回講談社漫画賞少女漫画部門を受賞した六花チヨさんの漫画「IS」(全17巻)です。私が勤務している学校の図書館に全巻があったので、原作を全て読みました。当事者からの念入りな取材を行い、きちんとした事実を踏まえながら、しかも、漫画として「おもしろく」読めるようにと悪戦苦闘(?)して書き上げた、すばらしい作品だと思いました。

主人公の「春(はる)」は、さまざまな差別や偏見に傷つきながらも、家族や理解してくれる人たちにも支えられ、パティシエという自分の夢に向かって、ひたむきに歩んでいきます。男性と女性という二つの性の間を揺れ動きながら、そのどちらでもないISとしての自分をありのままに受け入れ、自分らしく生きていく道を選んでいきます。

ドラマは、時間的な制約のためか原作の設定とは違っている部分もありますが、原作の精神をきちんと受け止めて作っていこうという姿勢が感じられます。若い出演者たちも熱演していて、好感が持てます。

番組ホームページにも掲げられている言葉ですが、こうしたドラマを通して、「人はひとりひとり、違っていいんだ」ということが、当たり前に受け入れられる社会となっていってほしいと思います。

「第2回 草加の学童保育のあり方検討委員会」を開催しました。2011年08月21日 12時37分29秒

8月18日(木)に、「第2回草加の学童のあり方検討委員会」を行いました。この委員会を立ち上げた趣旨については、7月3日付のブログをご覧下さい。

第1回の検討委員会では、趣旨説明を行い、それぞれの立場からざっくばらんに意見交換を行いました。そこで出された意見などを踏まえて、事務局で今後の論議の方向性などについて話し合いました。基本的には、次のような方向で論議を進めていきたいと考えています。

  • 運営形態がどうであれ、草加の学童保育はこうあるべきだという、本来草加の学童保育がめざすべきものとして検討を進める。(現在、草加には「公立」「指定管理」「要綱に基づく委託」という3形態がありますが、どういう形態であってもきちんと実現されなければならない内容として考えていくということです。将来、万が一「指定管理者制度」によって営利企業が参入するような事態になったとしても、同じ質の保育がきちんと行われるような基準となるものを考えていこうということです。こういう「基準」は、本来行政がきちんとやるべきだと思いますが・・・。)

  • 個々の検討に入る前に、「学童保育と何か」「学童保育は何をなすべきところか」という、基本的な理念をみんなで確認してから、その後の検討に入る。

  • 上記のことを踏まえて、転倒すべき具体的なテーマを設定し、検討を進めていく。

  • 必要に応じて、いくつかのワーキングチームに分かれて検討を進める。

第2回の検討委員会では、国や県、全国連協の文書や、学童保育に関わる関連法令、草加市の条例、事業委託仕様書などを資料としながら、「学童保育の基本的な理念」ということを中心に話し合いを行いました。私も、参考資料として私なりの考えをまとめた「学童保育のあり方についてのメモ」を出しました。

全体で確認できたことは、 「学童保育の目的、存在意義は、第一義的には、豊かな生活と遊びなどを通して、子ども達の発達を保障すること」だということです。「親が働き続けることとその家族の生活を守る」という役割は、上記の結果として実現されることです。この点については、参加して委員会メンバー全員が一致するところであるということが確認されました。

このことを踏まえた上で、保護者や指導員がそれぞれどのような役割と責任を持っているのか、学童保育に保護者がどのように関わっていったら良いのか、関わるべきなのかということが論議となりました。その理念は認めつつも、現実に「父母会」の負担が大きいと感じ、そのことで学童への入室を躊躇する保護者もいる、そのことをどう考えたら良いのかということです。さまざまな観点からの論議が行われました。具体的にはこれから論議を深めていく内容ですが、「学童保育の理念」と踏まえて、きちんと論議し整理していくべき課題のひとつだと思います。

今回出された意見を事務局で整理し、次回以降、具体的な検討に入って行ければと考えています。

「原爆の日のプレーボール 半世紀ぶりに赤ヘルが帰ってくる」~平和の思いを伝えること2011年08月22日 23時48分20秒

この夏も、戦争や平和について考えさせられるさまざまな番組が放映されました。その中から、印象に残った番組をいくつか紹介したいと思います。

まずは、8月14日に放映された、日本テレビの「ドキュメント11」です。タイトルは、「原爆の日のプレーボール 半世紀ぶりに赤ヘルが帰ってくる」というものです。

私は知らなかったのですが、広島東洋カープは、1959年(昭和34年)以来、昨年まで52年間にわたって、原爆が投下された8月6日には、地元での試合をおこなって来なかったのだそうです。

1957年(昭和32年)に広島市民球場が建設され、この年と翌年には、8月6日に試合が開催されました。しかし、このことに対して、「原爆の日に原爆ドームの隣で野球の試合をするのは不謹慎だ」と多くの人が声を上げたそうです。その後、広島市は規則で、「8月6日は球場を使わない」としたため、52年間、8月6日球場に明かりが灯ることはありませんでした。

2009年に新球場に移り、原爆ドームの隣ではなくなったこと、さらに原爆投下から66年経ったということで、カープは今年53年ぶりに、原爆の日8月6日に本拠地広島で巨人戦を戦うということが決定されました。

この番組を見て次のようなことを思いました。

「66年という長い月日が経ったとしても、広島の人にとって「8月6日」というのは、絶対に忘れることのできない慰霊の日なんだということ(本来、全ての日本人にとって、世界中の人にとってそうあるべきなんだと思いますが。)。」

「そういう被爆者達の思いを、次の世代に伝えようと真摯に努力している若い人たちがたくさんいて、広島の地においてその思いが確かに伝わっているということ。」

「普通に野球ができること、学校に通って勉強ができるということは、実はとても幸せなこと何だということ、この平和な世界をこれからもみんなで作っていかなければならないんだということ。」

そんなことを感じました。

この記念すべきナイターの演出・企画を任されたのが、自身が被爆3世である球団職員の森下祐介さんでした。どんな企画をしようかと、かつての球団職員に相談したら、喜んでもらえるどころか、「今までやらなかったのに何でやるのか」と反対されてしまいます。被爆者の本音が聞きたいといろんな方に電話したところ、「静かな夜を過ごしたい」「できることならそっとしておいてほしい」「どうして、わざわざ8月6日に野球をしなければならないのか」などの思いかかえた方がたくさんいるということが分かりました。

被爆者のこうした本音を知った森下さんは、一時は中止も考えました。しかし、「カープは生きがい」「戦後の苦しい時代にみんなでカープを応援することで、励まされた人もたくさんいる」という被爆者も多く、こうした声に励まされ、被爆者の思いに応えられる試合、演出をすることを決意します。そのときにキーワードとなったのが、「とにかく8月6日がどういう日だったのかを忘れないでいてほしい」というある被爆者の声でした。

森下さんが考えた企画は、試合の冒頭に、爆心地から1.8㎞の場所で被爆した「原爆ピアノ」の演奏と詩の朗読を行うというもの。試合開始15分前、場内アナウンスにともない観客全員が原爆の犠牲者に黙祷。続いて、球場のウッドデッキ席裏に設けられた特設ステージにおいて、広島市出身のピアニスト萩原麻未さん(昨年度ジュネーブ国際音楽コンクールピアノ部門で優勝)が演奏しました。荻原さんのピアノ伴奏に合わせて原爆詩(高木いさおさんの「8月6日」)の朗読も行われました。「8月6日」の詩に込められた想いを来場者以外にも届けてもらえるようにと、この詩を印刷したポストカードも入場者全員に配布されたということです。

日頃のカープの試合では、私設応援団が、トランペットなども使い、賑やかに応援をしています。しかし、この日に限っては、広島東洋カープ私設応援団の新藤会長に特別にお願いし、「慰霊の日である」ということで、トランペットなどの鳴り物を遠慮していただきたいと要請をしました。新藤会長の言葉も印象的でした。「(8月6日が)祈りの日だということは理解している。広島と長崎は、平和を世界にアピールするということが一番大切なことだ。」新藤会長は、趣旨を理解し、鳴り物を自粛することを快諾してくれました。

さらに、 試合が終わった後、家路に向かうファンにむけたピースキャンドルも用意されていました。このキャンドルは、平和記念公園の「平和の灯」より採火され、5000本のキャンドルで「8月6日」という文字を浮かび上がらせ、平和への祈りを込めたものでした。

この日の試合には、8月6日の試合に反対していた、元球団職員の方も観戦していました。試合の後、森下さんに、「今日は良かったですね。」と話しかけ、被爆者のいろんな思いを「十分表現していただいて、うれしかった」と語っていました。

平和の大切さを改めて感じたし、被爆者の思いを次の世代に伝えていこうという若い球団職員の姿勢にも心を打たれるものがあり、とても良い番組でした。

最後に、当日朗読された、高木いさおさんの「8月6日」という詩と、カープの主砲栗原健太選手のブログの内容を紹介します。

8月6日

忘れてはいけないことは
決して忘れてはいけない

8月6日がやって来たら
「忘れてはいけない!」と声に出そう

8月6日がやって来たら
1945年に生まれていなくても
「忘れてはいけない!」と声に出そう

8月6日じゃなくても
戦争の話が出て来たら
「忘れてはいけない!」と声に出そう

8月6日じゃないし
戦争の話も出ていないけど
生命(いのち)のことを考えるときは
「忘れてはいけない!」と声に出そう

そして
生きたいのに死んでいった
沢山沢山の人たちのことを思いながら
生きていることの意味を考えよう

栗原健太選手のブログ

8月6日。
広島に世界で初めて原爆が落とされた日。
僕は今年の大地震で被災地に行った時、ものすごい衝撃を受けました。
物がたくさんあって、何もない。
僕の知る、東北の穏やかな自然が何もかもめちゃくちゃにしてのみこんでいった。

テレビでは見ていたけど全然違う。

もちろん、大地震があって「野球をする意味」も考えました。
家に帰れば当たり前のように家族がいて好きな野球をする
そんなんでいいのか。
僕は何をすればいいのか。
しばらくして、僕は広島にいるからこそ大事なことを思い出しました。
今、広島には被爆体験を語り継ぐ語り部の方がだんだん少なくなっているそうです。
広島は「伝えていくこと」をとても大切に、重要な課題にしています。
だから、僕も、ブログに8月6日のことを書いてきました。
僕みたいな山形出身者が何を書いても変かもしれませんが前にも書いてるように、被爆3世の嫁、被爆4世の娘たちが僕の家族です。

やっと、その「伝えていくこと」の何が重要か分かってきました。
地震による津波の影響もこれからその土地に伝わっていくはずです。
「伝えていくこと」は聞く人がそれが何か知ること。
広島の人たちは、その先に何があるかを知っています。
もし、原爆のことをあまり知らない方がこれを読んでくださってたら考えてみて欲しいです。
原子爆弾が広島に落ちた、その出来事としてではなくもし、今同じことが起こったら…
平和、というものの大切さ、素晴らしさ、凄さ。
「伝えていくこと」は「知ること」になって、人間にとっての幸せを考えたり、核兵器が地球から無くならないことを疑問に思ってみたり、自分に何が出来るだろうか考えてみたり。
こんなにも綺麗で高いビルがある広島も何もない焼け野原だった。
凄い。
長いこと書いて、分からない人もいるかもしれないけどただ一言、凄いよね?
歴史上、日本人はこうして復活してきた。
もちろん、並大抵ではない努力、金銭面的にも色々あるだろう
嫌になったり、どうでもよくなったり、悲しいことがあったり、腹立たしかったり。
でも僕は今日のこの日にこそ伝えたい、
何もない状況でも、これから絶対に大丈夫だ!と
元・何もなかった広島の地で僕は好きな野球をする。
52年間、この日に野球が広島でされることはなかった。
53年目の今年、僕は広島で好きな野球をする。
何かが変わる。何かが伝わってほしい。