「何で皆が幸せになれないんだろう?」~教え子とホームレスさんとの会話2013年01月13日 21時39分56秒

先日、21歳になる私の教え子が、フェイスブックに、次のような長文の書き込みをしていました。今の社会の状況とその中で何か必要なのかを考えさせてくれる文だと思います。長くなりますが、ぜひとも多くの人に読んで欲しいと思い、紹介します。是非とも、お読み下さい。

昨日、上野で煙草を吸ってたらホームレスさんに煙草をせがまれて、煙草とたまたま持っていたホッカイロあげたら、「ありがとうって」何度も言って泣き崩れたんだ。

私、「えっ?えっ?」ってなって、困惑してたら、「人に優しくされたの久しぶりだ」って言い出したんだ。ホームレスさんが煙草せがみに来るのなんてよくある話で、私も何度も渡してきたし、「そんなことで泣かないでよっ」て言ったら、今日何人にも声かけてみんな蔑む目で見て無視して、私がやっとくれたんだって。おまけにホッカイロまでくれるなんてって言って目頭熱くしてるから、胸が痛くなって、開けてない煙草一箱渡したら、「本当は煙草吸ったこと無いからいらないよ」って。だから私が「じゃあ何で煙草せがんだの?」って笑ったら、ホームレスさんも本当だよねって笑って、「煙草吸ったら何か変わるかなって思って」って言ったんだ。

人それぞれの事情があってホームレスになる人もいれば、自分から好んでホームレスになる人もいるし、きっと辛いことがあったのかなと思いつつも黙って煙草吸ってたら、ホームレスさんが急に自分の経営してた会社が倒産して家族も失って生きる意味が無いって言い出したんだ。この不況でずっと赤字でも何とか立て直すために家族のために頑張ったけど限界がきてたくさんの物が差し押さえになって親戚もご友人も頼れなくなって離れていって、奥様もお子様も離れて行っちゃったんだって。だからホームレスになったって。

自分だけの衣食住のためなら、こんなホームレスにならなくても色々な術はあったけど、今まで家族のために頑張ってきて全て失って何もする気にならなかったらしい。何度も死のうって思ったのに、死ねなくて、でも生きる気も起きなくて、ただ時間が経つのを待っているんだって。

ホームレスの世界にも色々なルールがあるらしくて、それも自分には合わなくて、吸えない煙草を吸ってみようと思ったんだって。何だろうな。ホームレスさんと話して、そのホームレスさんはとても良い人なんだろうなって思えて、何でこんな人がホームレスしちゃってるんだろうって思うくらいで。でも自分は何もできなくて。ホームレスさんが言った生きる意味がないって言葉がやけに重くて。かける言葉がこんなにも出てこないものかって思うぐらいだった。

私は社長じゃないから雇ってあげることも、頭よくないからホームレスさんを上手く動かすことも、お金がないから家も与えてあげることもできなくて、それ以前に生きる意味を与えられなくて、自分の無能さを凄く感じた。年齢を聞いたらまだ41歳って。でも見た目は失礼だけど50代後半に見える程で、どれだけ苦労して悩んで辛かったのかそれだけで分かる程で・・・。

ホームレスさんとお話してる最中、何度も私たちの前を人が通ったんだけど、その光景は一般の人からしたら不思議な光景なのかもしれないけど、初めてって言っていいくらい冷たい目を向けられて、ホームレスさんは毎日そんな目で見られてるんだって思ったら言葉にならないぐらい胸が痛くなった。沢山のお話を聞いて、ホームレスさんはありがとうって。私は若いのにいい子だって沢山褒めてくれて、「大好きで大切な人と一生一緒にいられるように今を頑張れ」って。

自分のことだけじゃなく他人を応援して、人の優しさをちゃんと感じることができる人で、会話していくうちに沢山の知識を持っている人でもあって、経営破綻したけども頑張ればやり直し出来たんだろうなって思える人で、でもそれが出来なくなったのは大事な人を失ったからであって、逆を言えばそれほど大事にしてきて沢山の愛情を持っていた人だったんだよね。最後私は「風邪ひかないでね」しか言えなくて、一日経った今あのホームレスさんがもしこの世からいなくなってしまったら嫌だなって。もう一度頑張って、幸せを味わってほしいなって。でも何もしてあげることの出来ない自分とこんな人は日本だけでも山ほどいてキリがないっていう現実に悲しくなった。なんで皆が幸せになれないんだろう。

直接本人にも言っていますが、この文を書いた子は、私の32年間の教員生活の中でも、卒業させるために最も心配し、苦労した生徒の一人です。卒業させるだけが精一杯で、きちんと進路を決めてあげることは出来ませんでしたが、今はまじめにきちんと働いています。

本当に心優しい素敵な女性になってくれました。

「なんで皆が幸せになれないんだろう?」この問いに、真剣に答えるのは、私たち大人の責任だと思います。

米兵による暴行事件、基地問題、オスプレイの配備強行~日本はアメリカの植民地か!2012年10月17日 21時33分30秒

16日に沖縄県で起きた米兵による女性暴行事件を聞いて、「またか!」と思い、怒りを覚えました。これまでも何回も繰り返され、そのたびに謝罪と綱紀の粛正が叫ばれているにもかかわらず、いっこうに減らない犯罪。もういい加減にしてくれという思いです。

今沖縄の基地には、イラクやアフガニスタンなどで、多くの戦死者をだし、自分自身も生きるか死ぬかの戦闘をしてきた兵士が戻ってきていると言います。沖縄では、自治体の真ん中に基地があり、そういう極限状況の中で戦闘を行ってきて極度に緊張状態にある兵士が、ごく普通に沖縄の街を歩いているわけです。こうした中で、米兵による犯罪が繰り返されています。

日米地位協定により、米兵の公務中の行為は、日本が裁判を行うことが出来ません。1978年の国会答弁で、安保条約締結以降、公務中の事件、事故が三万六千件に達しているがアメリカで裁判が行われたのは一件もないということが明らかになりました。公務外の事件、事故の場合には、日本側が裁くことになっていますが、日米に密約があり、特に重大なものでない限り、日本側は裁判権を放棄することになっているとも言います。

16年前に移設が合意されたにも係わらずいっこうに進展しない「普天間基地問題」、沖縄県民が強硬に反対しているにも係わらずオスプレイ配備が強行された問題、米兵犯罪の放置など、日本は一体アメリカの植民地なのかと憤りを感じざるを得ません。

ノーベル賞を受けた山中教授の人柄、理念に感銘を受けました。2012年10月14日 22時40分21秒

京都大学の山中教授がiPS細胞の作成でノーベル賞を受賞しましたが、科学的な業績ということだけでなく、その人柄や理念というものにとても感銘を受けました。

一つは、山中教授が、自分の研究所で働いている人達がきちんと雇用され安心して働ける環境を作るということに心を砕いているということです。彼が働いているiPS細胞研究所で働く人のうち正規職員は1割、残りの9割の人が有期(非正規)雇用なのだそうです。山中教授は、そういう非正規の人達の頑張りがあったからこそ今回の受賞につながったと語っています。

ノーベル賞受賞前から、文科省は、今後10年間予算を大幅に増やすということになっているのだそうですが、できるだけ多くの人が正規職員として働けるようにしていきたいと語っていました。ノーベル賞を受賞したということも力にしながら、この予算がなくなる11年目以降も、研究所の人達が安定して仕事が出来るように今後とも予算の増額を求めていきたいとも述べていました。自分の研究のことだけではなく、何よりも、共に働く人達の雇用や暮らしのために、力を注いでる姿は素晴らしいと思いました。

もう一つは、自分たちが研究してきたことが一部の企業に独占されないように、公的機関である京都大学として、特許の申請に力を入れているということです。一握りの企業だけが特許を持っていたら、本当に必要な患者さんたちに安く最先端の医療を提供するということができなくなってしまいます。そういうことが起きないように、自分たちが積極的に特許を申請し、必要としている人誰もが自由に使えるようにしたいのだと述べていました。研究のための研究ではなく、実際に必要としている多くの人達のことまで考え、活動しているというのはとても立派なことだと思いました。

Facebookを始めました。2012年08月18日 22時24分03秒

知り合いの市会議員さんから、Facebookへの招待をいただき、Facebookの利用を始めました。

プロフィールなど必要事項を入力し、登録を完了すると、その内容からすぐに「友達」の候補がたくさん紹介されました。その中から「友達」になりたいと思う人に送信し、承認されると「友達」になれるわけです。

まだうまく活用できているわけではありませんが、連絡を取りたいと思っていて、なかなか連絡が取れなかった卒業生と簡単に「友達」になることができ、連絡を取ることができました。

卒業生達は、携帯で撮影した写真などをすぐにアップロードしていて、すぐにみんなの様子を知ることができ、面白いと思いました。私は今のところパソコンからしか利用しませんが、スマホなどで利用すれば、常に「友達」の様子を知り、連絡を取り合うことができとても便利で面白いものだと思いました。

左の「リンク」に、私のFacebookへのリンクも載せておきますので、もし良ければ「友達」になってください。

妻の母の葬儀を終えて2012年06月28日 23時15分45秒

先週日曜日、同居していた妻の母が亡くなりました。27日に通夜、28日に告別式を行いました。妻の父方、母方の親戚が遠くからたくさん来て頂きました。

義母は、義父が亡くなった後一人で東京で暮らしていましたが、脳梗塞で倒れ、3年半前から草加で一緒に暮らしていました。いろいろ縁あって、草加でも親しくして下さる方が何人もできました。

今回の葬儀では、本当にたくさんの親戚の方々、地域の知り合いの方々、私と妻の職場の方々、学童保育の仲間達など、多くの方々にお越し頂きました。葬儀という、悲しい別れの場ではありますが、人と人との繋がりの大切さ、人の心の温かさを深く感じた2日間でした。

義母は、脳梗塞の後遺症で左足が不自由になりましたが、週3回近所の介護老人保健施設にデイケアで通いながら、明るく元気に暮らしていました。5月上旬に、その施設で、発作を起こし、草加市立病院に検査入院をすることになりました。19日に退院しましたが、その後は、デイケアに通うこともなく、自宅での療養に入りました。

5月下旬から、妻が介護休暇を取り、在宅で介護をすることになりました。先週の日曜日6月24日、子どもまつり実行委員会のあと帰宅し、妻と娘と3人で食事をした後、妻が母の様子を見に行きました。

日頃から母の様子を見ていた妻でしたので、呼吸が通常とは違うことに気づきました。訪問看護師に連絡すると共に、酸素の供給量を倍にしましたが、呼吸が苦しそうになり、次第にゆっくりとなり、一度大きく息をした後、小さく息をし、呼吸が停止しました。妻が母に大きな声で話しかけ、私と娘も部屋に入り、母に声をかけているうちに、訪問看護師が来てくれました。心停止を確認し、かかりつけの正務先生に連絡して頂きました。草加に来てからずっと見守ってくださり、義母が心から信頼していた正務医院の院長先生に、最後の診断をして頂きました。

日曜日でも、なかなか家族全員がそろうことのない我が家ですが、妻と私と娘が見守る中、自宅で最後を迎えることができたということは、義母にとっても妻にとっても、本当に幸せなことだったと思います。

葬儀に向けて、妻が、「母の看取りと文学」と「在宅介護日記」という小文を書きました。亡き義母を偲ぶと共に、最後まで母を介護し、看取った妻の労をねぎらうという思いを込めて、今日はまず、「母の看取りと文学」を紹介いたします。

母の看取りと私の文学

五月上旬に母が発作を起こし、一九日退院し自宅療養になりました。母と穏やかな日々を過ごす中で、私の心に浮かんできたものは、不思議なことに文学の断片でした。母と文学を共にしていた気がします。母は、デイケアセンターで公文の国語の学習を楽しみにしており、文学作品の冒頭や、百人一首を学んでいました。

五月八日、十日

職場にデイケアセンターから電話がかかり「発作を起こしたので迎えに来てほしい」と言う連絡があった時、どのような状況か分からず車で駆けつける時に、齋藤茂吉もこんな気持ちだったのだろうかと思った。

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

五月十一日 検査入院

 

五月十四日

職場に病院から電話があり、「血圧が出ないことがあるので、いつ何があるか分からないことを承知して置いてください」と連絡が入る。

翌十五日

毎日お見舞いに行っていたが、前日にあのような連絡が入り、様子を気にしながら病室に入ると、母の目がとてもきれいに輝いている。その時にふっと浮かんだのが夏目漱石『夢十夜』第一夜

「大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。」

初めて「第一夜」の深い意味が分かった気がした。漱石もこのような眸を見たのだろうか。私の母は、この眸なら死なない・・・でもやがては 亡くなり、待ち続けると白百合が咲きまた逢いに来るのだろう、などと考えた。

五月二十日 退院の翌日

しきりに「今までどうも有り難う」と言うので気になり、「今日は一緒に寝ようか?」と聞くと「いい」と答えた。齋藤茂吉はこんな状況の時に詠んだのだろうか

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

父が東北出身だったこともあり、茂吉の短歌が次々と浮かぶ。茂吉は知らせを聞き、急ぎ上野駅に駆けつけ列車に飛び乗り、今はの際の母に添寝をした姿が眼に浮かんできた。母はそんなにさし迫った状況ではなかったが、茂吉の心境が迫ってきた。茂吉の本当の気持ちが理解できた気がした。

五月末

ある時ポツンと母が、「もっと直ぐにす~と死ぬのかと思った」呟いた。

「お母さん、作家の三浦綾子はね、十代の最後の頃から肺結核、脊椎カリエス、膠原病と難病の問屋と言われるほどで、人生のほとんどが寝たきりと言っても過言ではなかったの。七十七歳の時に『私には死ぬという仕事がある』と言ったのよ。死ぬことって仕事なんだね。」と話したら、「そうか・・・」と頷きながら答えていた。

 

六月

宮沢賢治も妹とし子の死を謳っていたのが思い浮かんで来た。

「永訣の朝」

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
ああとし子
死ぬといふ今ごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

賢治の清浄な心が胸に迫ってくる。母は、私にこの清浄な時間を与えるために生きていてくれるのだ、と思った。私の心が純粋に洗われていく気がした。

六月中旬以降

この頃から、脳裏に吉田兼好の『徒然草』第七段の冒頭が思い浮かぶようになる。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ。

静かにこの言葉が胸に染み、兼好の悟りの境地はこうであったか、としみじみと思った。

六月二十四日

いつもと同じ朝が訪れ、顔と身体を拭き、野菜ジュースを一五〇CC飲み、母はもう一度眠りについた。昼にビシソワーズスープを飲ませようとしたけど、なかなか入っていかない。痰が絡むので上体を起こし、背中をさすっていた。「明日は月曜だから朝一番に看護師さんに連絡して、痰を吸引してもらおうね」と話しかけていた。しかしあっという間に息が荒くなり弱くなっていった。看護師さんに状況を緊急連絡。駆けつけてくださるまでわずか九分だった。玄関先に看護師さんが到着する一瞬前に、母は家族三人が見守る中で、最後に弱い息を一つして呼吸が止まった。

「レモン哀歌」 高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時v 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した櫻の花かげに
涼しく光るレモンを今日も置かう

母の場合は、レモンではなくビールが思わず浮かぶ。そして花は桜ではなく、庭に咲いていた紫陽花だった。母が自宅療養していたのは、紫陽花がつぼみを付けはじめ、日ごとに色合いが濃くなっていった間だった。母のベッドサイドには紫陽花を何度も活け替えていた。

 

「レモン哀歌」の「山巓でしたやうな深呼吸を一つして~それなり止まった」が母の臨終の姿と重なって深く染みた。

文学というものが、母の看取りをこんなにも支えてくれるものであったことを自分でも不思議に思う。母が最後に教えてくれたのではないかと思う。