「こだまでしょうか」と「行為の意味」~子ども達と「こだまし合う」心を!2011年05月01日 19時59分41秒

東日本大震災の後、ACジャパン(旧公共広告機構)の広告で繰り返し使われ、とても印象に残る二つの詩があります。

けんかした子ども同士が仲直りする映像で、歌手のUAさんが朗読するのが金子みすゞさんの詩「こだまでしょうか」です。

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。

この詩は、26歳で亡くなった金子みすゞさんの晩年の作品で、詩集「わたしと小鳥と鈴と」などに収録されています。「金子みすゞ全集」を出版し、彼女の故郷・山口県長門市に建つ「金子みすゞ記念館」の館長でもある童話作家矢崎節夫さんは、この詩について次のように解説しています。(「金子みすゞのこころ」偕成社)

「みすゞコスモス」、みすゞさんのこころの宇宙の共通のまなざしは、「こだまでしょうか」という作品です。

こだまとは、"丸ごと受け入れる"ことです。

かつて、私たちのまわりにいてくれた、すてきな大人たちは、こだましてくれる人たちでした。

ころんで「痛い」といった時、両親は「痛いね」と、私の痛さを丸ごと受け入れてくれて、返してくれました。こだまは、「ヤッホー」といったら「ヤッホー」と半分の大きさになって返ってくるわけですから、「痛いね」と返してくれた時、私の痛さは半分になることができたのです。

おじさんやおばさんはもっと上手に、「痛いね、痛いね、かわいそうだね」と何度も、何度もくりかえてしてくれたあとに、やっと、「痛いの、痛いの、飛んでいけ」という呪文や「がまんしようね」という励ましのこどばをかけてくれたので、私の痛みは完全に消えることができました。

しかし、今、私を含めた多くの大人が、こだますることをしないで、一方的に否定し、一方的に励ましてはいないでしょうか。

ころんで「痛い」といった時、「痛くない」といっていないでしょうか。すぐに「がまんしろ」といっていないでしょうか。

"このお父さん、お母さんなら愛してくれると思って生まれてきてくれた小さい人たち"の痛さを否定し、励ますだけで、一度もこだましてあげることをしなければ、痛さは消えることなく、生のまま、こころの中の辛さやさみしさや痛さという器に、押し込めるしかないのです。

そして中学生くらいになると、その 器が一杯になってしまう子がいるのです。

その子が新しい辛さや痛さに出会った時、もう入れることができませんから、一度思い切ってその器をひっくり返して、からにするしかないのです。

未来のある人たちを、そんな状態に追い込んだのは、私たち大人です。私が子どもだった頃、大人という人たちは、人の喜びを自分のことのように喜べる人達でした。人の悲しみを自分のことのように悲しめる人たちでした。

今、私たちは自分は自分。他人は他人と分離してしまいました。だから、み すゞさんは今、甦ったといってもいいでしょう。

私たちのまわりはすべて、光と影のように、昼と夜のように、見えるものと、見えないもののように、二つで一つなのです。二つで一つということを、きちんと認識する行為が、こだまなのです。

21世紀はみすゞさんのまなざしの世紀です。

人と人が、人と自然が、自然と地球が、こだまし合う世紀です。

小さい人だけでなく、年を重ねた人たちにも、こだまし合える自分でありたいと思います。

子ども達をありのままに受け入れ、「こだまし合う」こと。まさに、学童保育の精神ではないでしょうか。しっかりと心に刻みたい詩だと思います。

もう一つの詩です。

電車で妊婦に席を譲れなかった男子高校生が、石段を上る高齢の女性の背中にそっと手を添える、こんな映像のCMで朗読されるのが埼玉県羽生市出身の詩人宮澤章二さんの「行為の意味」という詩です。

宮澤さんは、埼玉県の高校で国語教師を4年勤めた後、文筆業に転じました。毎日新聞学芸部の嘱託を務め、旧大宮市の教育委員長も務めた方です。

「行為の意味」は、校内暴力やいじめが社会問題化した1985年ごろに、中学生に向けて書かれた詩です。宮澤さんは2005年に他界しましたが、長男の鏡一さんが宮沢さんの一周忌に合わせて、この詩を含む作品を詩集にまとめました。

大震災が起きた3月11日は、宮澤さんの命日でした。長男の鏡一さんは、「偶然と言うには不思議すぎる。思いやりや心遣いが必要じゃないかという思いが共感を呼んでいると思う」と話しています。

行為の意味

-あなたの〈こころ〉はどんな形ですかと
人に聞かれても答えようがない
自分にも他人にも〈こころ〉は見えない
けれど ほんとうに見えないのであろうか

確かに〈こころ〉はだれにも見えない
けれど〈こころづかい〉はみえるのだ
それは 人にたいする積極的な行為だから

同じように胸の中の〈思い〉は見えない
けれど〈思いやり〉はだれにも見える
それも人にたいする積極的な行為なのだから

あたたかい心が あたたかい行為になり
やさしい思いが やさしい行為になるとき
〈心〉も〈思い〉も 初めて美しく生きる
-それは 人が人として生きることだ

CMの反響は大きく、「電車で席を譲ってくれる人が増えた」という妊娠中の女性や「CMにひかれて本を読み、他の詩にも感動した」という声などが寄せられていると言います。二つの詩は、CMを通して、悲しみに包まれた人たちの心を癒やし、多くの人に感動を与えました。「詩」や「言葉」の持つ力の大きさを改めて感じました。

(このブログを書くにあたっては、毎日新聞、埼玉新聞の記事などを参考にしました。また、5月14日(土)から6月5日(日)まで、横浜そごう美術館において、「没後80年 金子みすゞ展」が開催されます。是非行ってみたいと思います。)

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