元気っ子クラブの第9回総会が行われました。2012年06月03日 21時55分41秒

かなり遅くなりましたが、元気っ子クラブの第9回総会の報告です。5月20日(日)、学童保育の会の第27回総会が午後1時から行われ、その後3時から、元気っ子クラブの総会が行われました。

市内の協働学童保育室の統一運営を始めて、今年で9年目になります。統一運営開始当時は、運営児童クラブ数は14カ所、保育集団としてのクラス数も14でしたが、今年度は、クラブ数が17、クラス数は33クラスにもなりました。

市との協議の中で、今年度から、全児童クラブでの延長保育(7時まで)の実施を前提として、各クラスに正規指導員を2名配置することとなりました。昨年までは、児童数が71名以上の児童クラブしか2クラスとして見なされませんでしたので、70名近い児童クラブでも1クラス分の予算措置しかされませんでした。今年度から、児童数ではなく、定員でクラス数を決定するようになりましたので、児童数の増減に関わりなくほとんど全ての児童クラブにおいて、2(3)クラス制を取り、それぞれのクラスに正規指導員を2名配置することができるようになりました。

この9年間で、施設の改善も大きく進みました。待機児解消のために、まだまだ、施設の増・新設が必要なところもあります。しかし、全ての児童クラブが、空き教室か学校敷地内の専用施設を使うことができるようになったということは、とても大きなことだと思います。

こうした大きな前進面がありつつも、解決しなければならない課題もたくさんあります。学童保育が大規模化したことにより、保護者同士の関係も薄くなってしまいました。NPO法人による統一運営になり9年が経過したことにより、以前の父母会経営時代の学童を知る保護者がほとんどいなくなりました。学童保育が「あって当たり前」の施設となったことは大きな前進ですが、遅れた施策であり、まだまだみんなで支えていくということなしに維持していくことができないにも関わらず、「預けっぱなし」「人任せ」というような保護者も増えています。学童によって多少の違いはありますが、NPO法人の活動を支える父母会活動が全体として弱くなっているという傾向があります。

児童数が増え、児童クラブ数、クラス数も大幅に増える中で、事務所がこなさなければならない事務作業量も膨大になっています。非常に大きくなった組織と事務作業量の増大に対応して、みんなで元気っ子クラブを支えていくという組織体制をどう作っていくのかということを真剣に考えていかなければなりません。

急激にクラス数が増え、それに伴い新人指導員も急増しました。こうした新人指導員が主体的に元気っ子クラブを担っていく指導員としてどう育っていくことができるのか、これも大きな課題です。

今年1年間は、元気っ子クラブの5年後10年後を見据えた新しい組織作りをどう作っていくのかということが大きな課題ではないかと思っています。みんなの知恵を集めて、子どもたちのためによりよい学童保育の実現をめざして、精一杯頑張っていきたいと思います。

「草加の児童館を考える会」で市長との懇談を行いました。2012年06月05日 23時14分20秒

最近、「草加の児童館を考える会」が結成されました。私も誘われ会員となりました。

この会として、広報「そうか」4月号に載っていた「市長の出前懇談」に申し込みをしたところ、5月30日(水)に、市長との懇談が実現しました。

草加市には、現在5カ所の児童館(児童センター)がありますが、地域的に偏りがあります。20年くらい前に、市北東部に児童館の設置をという議会請願が採択されたこともありましたが、未だに、新設児童館の建設は実現していません。

児童福祉法上、「児童」とは、18歳までの子どものことを指します。従って、本来「児童館」は、中高生までを対象とした施設であるべきだと思いますが、草加市の児童館の場合には、乳幼児を対象とした事業がほとんどで、中高生が集えるような場とはなっていません。

また、5カ所の児童館の内の一つ、松原団地内にある児童館が、松原団地の建て替えに伴い平成30年(2018年)までに建て替えられる予定となっています。子ども達自身や、子育てに関わっている団体などの声をきちんと聞きながら、草加市の今後の児童館の基準となるような素晴らしい施設を建設していって欲しいと思います。

こうしたことを中心に、約1時間半の懇談を行いました。

市長は、私たちの話によく耳を傾けて頂き、基本的な理念としては、同じ思いであるということを感じることができました。本当に子ども達の立場に立ち、児童館としての役割をきちんと果たすことができるように、もっと児童館職員の研修を行っていきたいということ、中高生も含めた居場所となるような事業内容の充実を図ること、松原団地内の児童館の建て替えにあたっては、アウトラインができる前に、できるだけみんなに明らかにして意見を聞いていきたい、ということなどを語っていました。

学童保育だけでなく、児童館の充実なども含めて、子ども達が育つことのできる草加市の実現をめざして、これからも、みんなで力を合わせていきたいものだと思います。

大田尭先生のドキュメンタリー映画「かすかな光へ」を見て2012年06月09日 23時11分32秒

5月20日、元気っ子クラブの総会が終わったあとの夜に、草加親子劇場の主催で、教育学者である大田尭(たかし)先生の思いと実践を描いたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」の自主上映会があり、参加してきました。

大田先生は、草加でも何回か講演をされています。私も何回かお話を伺いましたが、難しい言葉を使わず、誰にでも分かる平易な言葉で、物事の本質をきちんと伝えるという姿に、いつも感銘を受けています。

難しいことを難しい言葉で伝えるという人もいますが、実はその人は、本当にはそのことを理解してはいないのではないかと思います。物事の本質について深く考え、立場の違う人も含めていろんな人と話し合い意見を受け止めることのできる度量の大きさを持ち、若い人達の気持ちもきちん理解することのできるしなやかな感性をもっているからこそ、誰にでも分かるやさしい言葉で、物事の本質を語ることができるのではないかと思います。

大田先生の話を伺ってからは、先生の足下にも及ばないにしろ、私もきちんと物事の本質をつかみ、誰にでも分かるやさしい言葉で語れるようにと心がけるようになりました。(本当に、まだまだダメダメですが。)

私は、子どもたち一人ひとりの気持ちをきちんと受け止めて、一人ひとりの持っている良いところ、伸びる力というものを引き出していけるような実践をしなければと常日頃から心がけているつもりでした。しかし、今回この「かすかな光へ」を見て、大田先生の語る言葉を改めて聞いて、知らず知らずのうちに、生徒の気持ちにきちんとは寄り添えないようなことをやってしまっているのではないかと考えさせられました。この歳になると学校の中でもそれなりの立場があり、多忙な日々を過ごす中で、教育の中で本当に大切にしなければならないことを、忘れがちになってしまっていたのではないかと、深く反省させられました。

今回この映画の自主上映を企画して頂いた草加親子劇場の皆さんに、心から感謝したいと思います。若い指導員や教員達にも、是非とも見てもらいたいと思いました。

妻の母の葬儀を終えて2012年06月28日 23時15分45秒

先週日曜日、同居していた妻の母が亡くなりました。27日に通夜、28日に告別式を行いました。妻の父方、母方の親戚が遠くからたくさん来て頂きました。

義母は、義父が亡くなった後一人で東京で暮らしていましたが、脳梗塞で倒れ、3年半前から草加で一緒に暮らしていました。いろいろ縁あって、草加でも親しくして下さる方が何人もできました。

今回の葬儀では、本当にたくさんの親戚の方々、地域の知り合いの方々、私と妻の職場の方々、学童保育の仲間達など、多くの方々にお越し頂きました。葬儀という、悲しい別れの場ではありますが、人と人との繋がりの大切さ、人の心の温かさを深く感じた2日間でした。

義母は、脳梗塞の後遺症で左足が不自由になりましたが、週3回近所の介護老人保健施設にデイケアで通いながら、明るく元気に暮らしていました。5月上旬に、その施設で、発作を起こし、草加市立病院に検査入院をすることになりました。19日に退院しましたが、その後は、デイケアに通うこともなく、自宅での療養に入りました。

5月下旬から、妻が介護休暇を取り、在宅で介護をすることになりました。先週の日曜日6月24日、子どもまつり実行委員会のあと帰宅し、妻と娘と3人で食事をした後、妻が母の様子を見に行きました。

日頃から母の様子を見ていた妻でしたので、呼吸が通常とは違うことに気づきました。訪問看護師に連絡すると共に、酸素の供給量を倍にしましたが、呼吸が苦しそうになり、次第にゆっくりとなり、一度大きく息をした後、小さく息をし、呼吸が停止しました。妻が母に大きな声で話しかけ、私と娘も部屋に入り、母に声をかけているうちに、訪問看護師が来てくれました。心停止を確認し、かかりつけの正務先生に連絡して頂きました。草加に来てからずっと見守ってくださり、義母が心から信頼していた正務医院の院長先生に、最後の診断をして頂きました。

日曜日でも、なかなか家族全員がそろうことのない我が家ですが、妻と私と娘が見守る中、自宅で最後を迎えることができたということは、義母にとっても妻にとっても、本当に幸せなことだったと思います。

葬儀に向けて、妻が、「母の看取りと文学」と「在宅介護日記」という小文を書きました。亡き義母を偲ぶと共に、最後まで母を介護し、看取った妻の労をねぎらうという思いを込めて、今日はまず、「母の看取りと文学」を紹介いたします。

母の看取りと私の文学

五月上旬に母が発作を起こし、一九日退院し自宅療養になりました。母と穏やかな日々を過ごす中で、私の心に浮かんできたものは、不思議なことに文学の断片でした。母と文学を共にしていた気がします。母は、デイケアセンターで公文の国語の学習を楽しみにしており、文学作品の冒頭や、百人一首を学んでいました。

五月八日、十日

職場にデイケアセンターから電話がかかり「発作を起こしたので迎えに来てほしい」と言う連絡があった時、どのような状況か分からず車で駆けつける時に、齋藤茂吉もこんな気持ちだったのだろうかと思った。

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

五月十一日 検査入院

 

五月十四日

職場に病院から電話があり、「血圧が出ないことがあるので、いつ何があるか分からないことを承知して置いてください」と連絡が入る。

翌十五日

毎日お見舞いに行っていたが、前日にあのような連絡が入り、様子を気にしながら病室に入ると、母の目がとてもきれいに輝いている。その時にふっと浮かんだのが夏目漱石『夢十夜』第一夜

「大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。」

初めて「第一夜」の深い意味が分かった気がした。漱石もこのような眸を見たのだろうか。私の母は、この眸なら死なない・・・でもやがては 亡くなり、待ち続けると白百合が咲きまた逢いに来るのだろう、などと考えた。

五月二十日 退院の翌日

しきりに「今までどうも有り難う」と言うので気になり、「今日は一緒に寝ようか?」と聞くと「いい」と答えた。齋藤茂吉はこんな状況の時に詠んだのだろうか

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

父が東北出身だったこともあり、茂吉の短歌が次々と浮かぶ。茂吉は知らせを聞き、急ぎ上野駅に駆けつけ列車に飛び乗り、今はの際の母に添寝をした姿が眼に浮かんできた。母はそんなにさし迫った状況ではなかったが、茂吉の心境が迫ってきた。茂吉の本当の気持ちが理解できた気がした。

五月末

ある時ポツンと母が、「もっと直ぐにす~と死ぬのかと思った」呟いた。

「お母さん、作家の三浦綾子はね、十代の最後の頃から肺結核、脊椎カリエス、膠原病と難病の問屋と言われるほどで、人生のほとんどが寝たきりと言っても過言ではなかったの。七十七歳の時に『私には死ぬという仕事がある』と言ったのよ。死ぬことって仕事なんだね。」と話したら、「そうか・・・」と頷きながら答えていた。

 

六月

宮沢賢治も妹とし子の死を謳っていたのが思い浮かんで来た。

「永訣の朝」

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
ああとし子
死ぬといふ今ごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

賢治の清浄な心が胸に迫ってくる。母は、私にこの清浄な時間を与えるために生きていてくれるのだ、と思った。私の心が純粋に洗われていく気がした。

六月中旬以降

この頃から、脳裏に吉田兼好の『徒然草』第七段の冒頭が思い浮かぶようになる。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ。

静かにこの言葉が胸に染み、兼好の悟りの境地はこうであったか、としみじみと思った。

六月二十四日

いつもと同じ朝が訪れ、顔と身体を拭き、野菜ジュースを一五〇CC飲み、母はもう一度眠りについた。昼にビシソワーズスープを飲ませようとしたけど、なかなか入っていかない。痰が絡むので上体を起こし、背中をさすっていた。「明日は月曜だから朝一番に看護師さんに連絡して、痰を吸引してもらおうね」と話しかけていた。しかしあっという間に息が荒くなり弱くなっていった。看護師さんに状況を緊急連絡。駆けつけてくださるまでわずか九分だった。玄関先に看護師さんが到着する一瞬前に、母は家族三人が見守る中で、最後に弱い息を一つして呼吸が止まった。

「レモン哀歌」 高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時v 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した櫻の花かげに
涼しく光るレモンを今日も置かう

母の場合は、レモンではなくビールが思わず浮かぶ。そして花は桜ではなく、庭に咲いていた紫陽花だった。母が自宅療養していたのは、紫陽花がつぼみを付けはじめ、日ごとに色合いが濃くなっていった間だった。母のベッドサイドには紫陽花を何度も活け替えていた。

 

「レモン哀歌」の「山巓でしたやうな深呼吸を一つして~それなり止まった」が母の臨終の姿と重なって深く染みた。

文学というものが、母の看取りをこんなにも支えてくれるものであったことを自分でも不思議に思う。母が最後に教えてくれたのではないかと思う。

「陽気な介護日記」2012年06月29日 21時43分44秒

昨日のブログでも書きましたが、5月下旬から、妻が介護休暇を取り、義母の介護にあたっていました。義母の葬儀に当たり、その体験を多くの人に知ってもらいたいと思ったようで、「陽気な在宅介護日記」という一文を書きました。

高齢化が急速に進むなか、介護の問題は、誰にとっても他人事ではないだろうと思います。多少参考になればと思い、妻の一文を紹介します。

陽気な在宅介護日記

職場で、「介護のため休暇を取らせていただきます。」とご挨拶すると、「よくご決意なさいましたね。」とご心配くださる方がいらっしゃいました。予想以上に、介護を身近なことと捉えてくださる方が多く、温かく見守ってくださったおかげで、専念することができました。有り難うございました。

でも、正直申すと「母の最後は私がしっかり看ます」と固い決意をした美談ではなく、自然とそうなってしまった結果でした。母は自分で体力が徐々に衰えていくことを感じており、長女の由美子に迷惑をかけまいと、自分で「入院か施設に入所する」と申しておりました。施設も探しながら母がどのようにしたいか話し合い、「できれば最後まで今まで通りデイケアに通いたい。」と言っておりましたので、様子を見ている矢先に入院ということになりました。退院が思いの外早かったので、そのまま自宅で看ることになりました。

母の気持ちを考え、弟と「胃瘻はしない、中心静脈栄養のカテーテルはしない」という確認は取り合っていました。

 

在宅介護という得難い経験をさせてくれた母に、心から感謝しています。

 

ケアマネージャーから訪問看護を紹介され、丁度かかりつけの正務医院の訪問看護師さんをお願いすることができました。介護ベッドを使った方がよいことをアドバイスされ、都合の良い日を指定するとその通りに搬入してくれました。「介護ベッドって色々装置がついていて高そう?」と思いましたが、床ずれができないように最上級のものを選びました。でも、レンタルで月2000円。非常に驚きでした。営業の方が若く、「偉いですね。若くてこのようなお仕事を選んで。きっかけは何だったんですか?」などと、進路指導に役立つかも、と思わず教員心理が働き聞いてしまいました。「お母さん、イケメンの若い素敵な男性で良かったね。」等と冗談を言い、結構在宅介護を楽しむことができました。

 

訪問看護師さんは、定例で週1回の訪問ですが、自宅で血液検査もでき、その結果脱水症状があるとお知らせくださり、水分補給の点滴だけは毎日することになりました。毎日看護師さんが来てくださるので、医療的なケアも心配することなく安心して過ごすことができました。

「母はビールが好きで・・・」と話しのついでに出てしまったら、「水分取れれば、ビール飲んでも良いですよ。私も好きですからね。朝からじゃアルコール中毒になっちゃうけど、昼からだったら良いんじゃないですか?大江さん、お寿司でもウナギでも美味しいおつまみ食べさせてもらって、ドンドン飲んでください。」と言われました。病院や施設ではこういう分けにはいかない。看護師さんからのお墨付きをいただきたので、それからは毎日飲ませてあげていました。母としては本望だったでしょう。横浜の弟は、岩手の高原地ビールをせっせと送ってくれました。

血液中の酸素濃度も毎日検査してくださいましたので、医師の指示で「酸素が足りないからボンベをしましょう。」と言われました。「え~酸素マスクをするんですか?今週の土曜日に親戚が来るので、その後にしてくださいませんか?」と言うと、「マスクじゃなくて、鼻からで充分ですよ。」と言われお願いしました。すると翌日直ぐに専門の業者の方が酸素を作り出す機械を設置しに来てくださいました。「在宅看護って至れり尽くせりなんだな~」と大変驚きました。よく考えると命に関わることだから、酸素は24時間いつでも対応してくださるのです。情報で知識としては知っていても、初めて経験し、身をもって尊い仕事だと感じました。

 

また、訪問入浴サービスも契約しました。写真をご覧ください。

訪問入浴2
訪問入浴1

必ず看護師さんが同行し、血圧、脈拍、呼吸数を確認してOKだったら写真の通り部屋に設置して入浴できます。「今日の入浴剤は、ももとラベンダーですがどちらが良いですか?」と聞かれびっくり!「お母さん、入浴剤を選べるんだって!ラベンダーは北海道の富良野畑が有名よ。」と言うと、北海道野ラベンダー畑を想像するような顔をしていました。爪も切ってもらいました。若いスタッフさん3人でとても良く笑ってくださり、部屋が明るい雰囲気になりました。

 

6月23日(土)は血圧が低すぎて入浴はダメそう・・・となったときも、5回も6回も計り直してくれました。「お母さん、お風呂入ったらビールのませてあげるから、血圧上げて!スタッフさんは若い男性だから、胸を時めかせて!」と言うと、責任者が「私どもの会社の医師の基準もありますので・・・」と言われ、ハッと我に返りました。そうだ、私が興奮しすぎ?と恥ずかしくなったり。でも「午前中の方が体調が良ければ、7月から時間を変更しましょう。」と細かい気遣いをしてくださいました。

自分が在宅介護をしなければ、こういう経験はできませんでした。仕事をしているときには、母になかなか優しい言葉をかけてあげられなかったので、本当に色々な方に支えられ、決して孤独な介護ではなく、母と濃厚で貴重な時間を過ごすことができました。このような経験をさせてくれた母に、心から感謝しています。そしてそれをサポートしてくださった介護・医療関係の方にも心から御礼申し上げます。

 

毎日母の様子を見ていたので、呼吸の変化にも直ぐに気がつき、家族3人で見守ることができたのだと思います。

 

最後の診断をしてくださったのは、母が草加に来てからずっと見守ってくださった正務秀彦先生でした。いつも励ましてくださり、母が心から信頼しておりましたので、最後を見届けてくださったことに感謝しております。首都圏における地域医療の大切さ、命を守る医師の使命を身をもって教えてくださいました。

お世話になったすべての方に心から御礼申し上げます。

喪主 小池 由美子