「海軍反省会」から学ぶこと-「やましき沈黙」に陥らない!2009年08月14日 22時12分03秒

8月6日、9日が原爆投下の日、15日が終戦記念日ということで、8月中は、戦争に関連した番組がたくさん放映されています。生徒に見せるかもしれないということも考えて、興味のある番組は、できるだけビデオに撮って見るようにしています。この夏、見た中で一番衝撃的だったのは、NHKがNHKスペシャルとして3回に分けて放映した「日本海軍 400時間の証言」という番組です。

昨年、ある海軍将校の遺品の中からたくさんのテープが発見されました。これは、戦後、旧海軍の中枢メンバーが「海軍反省会」と称して行っていた会合の記録でした。この「海軍反省会」は、1980年3月28日に第一回が開催され、以後12年、130回にわたり継続した会合でした。生存中は非公開ということを条件に、開戦に至った経過、作戦決定の状況などが、率直に議論されていました。

太平洋戦争で亡くなった日本人はおよそ300万人、アジアでは更に多くの人命が失われました。また、アメリカ人も含め世界で多くの人命が失われました。「海軍反省会」のテープは、この悲惨な戦争を引き起こし、作戦を立てていった人たちの生の声です。当事者の生の声を聞き、戦争遂行の最高責任者たちが、戦争の大儀を十分に問うこともなく、勝算もなく開戦へと突き進み、いかに無謀な戦争計画を立案していったのかということが、実によく分かりました。

この会合の中で、ある参加者は皆に次のように問いかけました。

「何の計画も勝算もなしに、名義のない強盗侵略戦争をやったということが真実なんですか?」

まさに、その通りとしか言いようがありません。こんなことのために、多くの命が失われ、生き延びた人も筆舌に尽くしがたい苦難を強いられたということは、本当に切ないことです

海軍中枢の中にも、この戦争は避けるべきだと考えていた人がたくさんいたということも分かりました。しかし、戦争を避けるべきだと考えながら、なぜそれを強く主張し、「戦争回避」のために具体的な行動を取ることが出来なかったのか。そのことを、ある参加者は「やましき沈黙」と表現していました。「おかしい」「この作戦は間違っている」と思いながら、その当時の「空気」に逆らうことが出来ずに「沈黙」してしまったというのです。他人事ではなく、現代に生きる私たち自身にとっても、非常に重い言葉だと思いました。「やましき沈黙」に陥り、同じ過ちを繰り返さないこと、それは、私たちに課せられた責務だと思います。

以下は、番組の中で紹介された当事者の声の一部です。

「軍備拡張のためにずいぶん予算を使った。戦えないとは一切言わない。こういうことなんですね。」

「明治末期から、大正、昭和に進むに従い、思い上がりおごりが高じ、身の程知らぬ暴走をやり、ついに日本を破滅に追い込んだ。」

<なし崩し的に決まっていったアメリカとの開戦計画>

「本当に国力その他検討して、対米戦、勝てるのか勝てないのか、真剣に検討しなかった。」

「本当にやれるのかどうか(中略)、それを本当に検討されずにですね、どんどん勢いに流されていった。」

「私が整備局長をやらされて調べてみると、とても出師(出兵)準備なんて言うのはまるで夢みたいなもんだ。作文は出来ておったんです、計画が。使うことが出来ないような兵器まで載せている.。帳面を会わせるために。」

「この戦備では戦が出来ませんと、何回も口が酸っぱくなるほど言って・・・。」

「(なぜこういう計画を立てたかというと)予算獲得の問題がある。それが国策で決まると大蔵省なんか、どんどん金をくれるんだから。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどん出来る。」

<空母4隻、熟練したパイロットなど3000人の兵士を失ったミッドウェー海戦計画>

「連合艦隊長官(山本五十六)の意見に対しては、きわめて反論してがんばった。(しかし)永野総長が、山本がそういうならやらせてみようじゃないかというようなところで決めちゃった。真珠湾攻撃が成功したもんですから、そうか、それじゃ山本にやらせてみようということで決めちゃった。」

「とにかく航空艦隊も潜水艦隊も(ミッドウェー作戦を)延ばしてくれと、あれほど言ったのに。一ヶ月延期してくれと。」

<人手不足で長期的な視点を欠いた軍令部(天皇直属の作戦機関)>

「軍令部一課の定員は平時のままなんです。平時定員のままで戦争が忙しくなって特に陸軍との折衝が頻繁にある。それから作戦部隊との交渉その他もいろいろある。あるいは戦地への出張もある。」

「作戦が始まってから日常の業務に追われていると、海軍の軍令部には長期的な計画を冷静に研究するスタッフがいなかった。」

こういう無謀な計画を重ねる中で、戦うための空母、戦艦を次々と失っていきます。そして、最後は、若者の命を犠牲にすることを前提とした「特攻作戦」を推し進めていくことになります。「特攻」でなくなった兵士は約5000人、そのほとんどは20代の若者でした。

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