子どもの権利条約に関する週刊新潮の記事2009年03月12日 23時23分07秒

今週号の「週刊新潮」で、「『子どもの権利条例』で日本は滅びる」という、悪意に満ちた記事が掲載されています。

この記事の趣旨は、以下のようものです。


近年いろんな自治体で「子どもの権利条例」の制定が進んでいるが、子ども達が、こうしたいろんな権利を「教育現場や家庭で振りかざしたら・・・。間違いなく、日本は滅」んでしまう。「条例が制定されれば・・・特定のイデオロギー色の強い人たちが子供をダシにして、自分たちの意見を押し通そうとする.このような事態に早めに対処しなければ、日本が滅びる危惧だってある。」


意図的とも思えるような論理のすり替えや、明らかな事実誤認もあり、あまりにも悪意に充ち満ちている記事であり、一つ一つ反論するのばかばかしいくらいですが、いくつか重要だと思われる点を指摘しておきたいと思います。

この記事の中でも指摘していますが、今日本各地の自治体で、「子どもの権利条例」の制定が進んでいる背景には、日本政府が1994年に、「子どもの権利条約」を批准したことです。「子どもの権利条約」は、1989年の第44回国連総会において、満場一致で可決され、翌1990年に発効した条例です。現在、この条約の締約国は193の国と地域におよんでいます。この条約の未締約国は、全世界で、アメリカとソマリアの2カ国だけです。この条約は、まさに「子どもの権利」に関しての、グローバルスタンダードだと言ってよいものです。

記事の中では、この「子どもの権利条約」に基づく「条例」を各地で策定していくということに関して、「こんな権利を子供が主張し始めたら、親はしつけなんかできなくなります」というような声を紹介しています。「子どもに権利なんか認めたら、子どもがわがままになるだけだ」などと言う意見もよく聞きます。しかし、こうした意見は、全く見当外れです。

「条約」というのは、国つまり日本政府が批准するものであり、基本的には、国と国どうしの約束事を定めたものです。ある「条約」を批准をするということは、その「条約」の内容に関して、国として責任を持つということを、対外的に宣言し約束をしたということです。

「子どもの権利条約」の根本的な精神は、「子どもの最善の利益をまもる」ということです。私たち大人がいろんな施策を行う場合に、まずなによりも次代を担う子ども達のことを一番に考えて、行動しなければならないということです。「子どもの権利条約」「条例」は、子ども達をわがままにするものだとかそういうものではなく、基本的には次代を担う子ども達に対する大人の責任を定めたものであると解するべきだと思います。

この記事は、各地で「子どもの権利条例」の制定が「燎原の火のごとく」広がっていることに対しての危機感から書かれているようです。しかし、なぜ、いま各地でこうした運動が広がっているのかしっかりと考える必要があります。「子ども達の最善の利益」が守られていない、子ども達が本当に大切にされている社会となっていないという現実があるからこそ、全国各地で「子どもの権利条例」制定の運動が広まっているのだと思います。

この記事では、「子どもの権利条約」や「条例」の中で、「子どもが遊ぶ権利」などが明記されていることも批判しています。子どもの遊ぶ権利を認めたら、子どもが勉強しなくなるとでも思っているのでしょうか。子ども達の成長や発達にとって、「遊び」が決定的に重要であるということは、子どもの保育や教育に関わる者であるならば誰もが知っていることです。豊かな遊びを幼年期に体験するということがいかに大切かということは、教育学や発達心理学などの研究を待つまでもなく、自明のことではないかと思います。

記事の中で、ある人が「そもそも国連の"児童の権利条約”は、子どもが蔑ろにされている国のためのものです。」と述べていました。この意見もよくある「批判」ですが、きちんとした事実に基づいたものであるとは思えません。いまや国際調査においてもOECD諸国の中で、日本の子どもの貧困率が上昇しているということが示されていますし、保険証を持たずに、安心して医療を受けることが出来ない子どもが3万3千人もいるということが明らかになったのもつい最近のことです。ここ何日かのテレビにおいても、経済的な理由で高校を中退せざるを得ない高校生が多数いるということが、報じられていました。

「先進国」ではありますが、その中で、本当に子ども達が大切にされているのかと言えば、必ずしもそうとは言えないのが日本の現実ではないでしょうか。こういう状況だからこそ、子ども達を本当に大切にする社会を作っていくための一つの方法として、「子どもの権利条例」制定の運動が全国で進んでいるのだと思います。