妻の母の葬儀を終えて2012年06月28日 23時15分45秒

先週日曜日、同居していた妻の母が亡くなりました。27日に通夜、28日に告別式を行いました。妻の父方、母方の親戚が遠くからたくさん来て頂きました。

義母は、義父が亡くなった後一人で東京で暮らしていましたが、脳梗塞で倒れ、3年半前から草加で一緒に暮らしていました。いろいろ縁あって、草加でも親しくして下さる方が何人もできました。

今回の葬儀では、本当にたくさんの親戚の方々、地域の知り合いの方々、私と妻の職場の方々、学童保育の仲間達など、多くの方々にお越し頂きました。葬儀という、悲しい別れの場ではありますが、人と人との繋がりの大切さ、人の心の温かさを深く感じた2日間でした。

義母は、脳梗塞の後遺症で左足が不自由になりましたが、週3回近所の介護老人保健施設にデイケアで通いながら、明るく元気に暮らしていました。5月上旬に、その施設で、発作を起こし、草加市立病院に検査入院をすることになりました。19日に退院しましたが、その後は、デイケアに通うこともなく、自宅での療養に入りました。

5月下旬から、妻が介護休暇を取り、在宅で介護をすることになりました。先週の日曜日6月24日、子どもまつり実行委員会のあと帰宅し、妻と娘と3人で食事をした後、妻が母の様子を見に行きました。

日頃から母の様子を見ていた妻でしたので、呼吸が通常とは違うことに気づきました。訪問看護師に連絡すると共に、酸素の供給量を倍にしましたが、呼吸が苦しそうになり、次第にゆっくりとなり、一度大きく息をした後、小さく息をし、呼吸が停止しました。妻が母に大きな声で話しかけ、私と娘も部屋に入り、母に声をかけているうちに、訪問看護師が来てくれました。心停止を確認し、かかりつけの正務先生に連絡して頂きました。草加に来てからずっと見守ってくださり、義母が心から信頼していた正務医院の院長先生に、最後の診断をして頂きました。

日曜日でも、なかなか家族全員がそろうことのない我が家ですが、妻と私と娘が見守る中、自宅で最後を迎えることができたということは、義母にとっても妻にとっても、本当に幸せなことだったと思います。

葬儀に向けて、妻が、「母の看取りと文学」と「在宅介護日記」という小文を書きました。亡き義母を偲ぶと共に、最後まで母を介護し、看取った妻の労をねぎらうという思いを込めて、今日はまず、「母の看取りと文学」を紹介いたします。

母の看取りと私の文学

五月上旬に母が発作を起こし、一九日退院し自宅療養になりました。母と穏やかな日々を過ごす中で、私の心に浮かんできたものは、不思議なことに文学の断片でした。母と文学を共にしていた気がします。母は、デイケアセンターで公文の国語の学習を楽しみにしており、文学作品の冒頭や、百人一首を学んでいました。

五月八日、十日

職場にデイケアセンターから電話がかかり「発作を起こしたので迎えに来てほしい」と言う連絡があった時、どのような状況か分からず車で駆けつける時に、齋藤茂吉もこんな気持ちだったのだろうかと思った。

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

五月十一日 検査入院

 

五月十四日

職場に病院から電話があり、「血圧が出ないことがあるので、いつ何があるか分からないことを承知して置いてください」と連絡が入る。

翌十五日

毎日お見舞いに行っていたが、前日にあのような連絡が入り、様子を気にしながら病室に入ると、母の目がとてもきれいに輝いている。その時にふっと浮かんだのが夏目漱石『夢十夜』第一夜

「大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。」

初めて「第一夜」の深い意味が分かった気がした。漱石もこのような眸を見たのだろうか。私の母は、この眸なら死なない・・・でもやがては 亡くなり、待ち続けると白百合が咲きまた逢いに来るのだろう、などと考えた。

五月二十日 退院の翌日

しきりに「今までどうも有り難う」と言うので気になり、「今日は一緒に寝ようか?」と聞くと「いい」と答えた。齋藤茂吉はこんな状況の時に詠んだのだろうか

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる

父が東北出身だったこともあり、茂吉の短歌が次々と浮かぶ。茂吉は知らせを聞き、急ぎ上野駅に駆けつけ列車に飛び乗り、今はの際の母に添寝をした姿が眼に浮かんできた。母はそんなにさし迫った状況ではなかったが、茂吉の心境が迫ってきた。茂吉の本当の気持ちが理解できた気がした。

五月末

ある時ポツンと母が、「もっと直ぐにす~と死ぬのかと思った」呟いた。

「お母さん、作家の三浦綾子はね、十代の最後の頃から肺結核、脊椎カリエス、膠原病と難病の問屋と言われるほどで、人生のほとんどが寝たきりと言っても過言ではなかったの。七十七歳の時に『私には死ぬという仕事がある』と言ったのよ。死ぬことって仕事なんだね。」と話したら、「そうか・・・」と頷きながら答えていた。

 

六月

宮沢賢治も妹とし子の死を謳っていたのが思い浮かんで来た。

「永訣の朝」

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
ああとし子
死ぬといふ今ごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

賢治の清浄な心が胸に迫ってくる。母は、私にこの清浄な時間を与えるために生きていてくれるのだ、と思った。私の心が純粋に洗われていく気がした。

六月中旬以降

この頃から、脳裏に吉田兼好の『徒然草』第七段の冒頭が思い浮かぶようになる。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ。

静かにこの言葉が胸に染み、兼好の悟りの境地はこうであったか、としみじみと思った。

六月二十四日

いつもと同じ朝が訪れ、顔と身体を拭き、野菜ジュースを一五〇CC飲み、母はもう一度眠りについた。昼にビシソワーズスープを飲ませようとしたけど、なかなか入っていかない。痰が絡むので上体を起こし、背中をさすっていた。「明日は月曜だから朝一番に看護師さんに連絡して、痰を吸引してもらおうね」と話しかけていた。しかしあっという間に息が荒くなり弱くなっていった。看護師さんに状況を緊急連絡。駆けつけてくださるまでわずか九分だった。玄関先に看護師さんが到着する一瞬前に、母は家族三人が見守る中で、最後に弱い息を一つして呼吸が止まった。

「レモン哀歌」 高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時v 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した櫻の花かげに
涼しく光るレモンを今日も置かう

母の場合は、レモンではなくビールが思わず浮かぶ。そして花は桜ではなく、庭に咲いていた紫陽花だった。母が自宅療養していたのは、紫陽花がつぼみを付けはじめ、日ごとに色合いが濃くなっていった間だった。母のベッドサイドには紫陽花を何度も活け替えていた。

 

「レモン哀歌」の「山巓でしたやうな深呼吸を一つして~それなり止まった」が母の臨終の姿と重なって深く染みた。

文学というものが、母の看取りをこんなにも支えてくれるものであったことを自分でも不思議に思う。母が最後に教えてくれたのではないかと思う。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://genkikko-koike.asablo.jp/blog/2012/06/28/6494551/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。