被災地、志津川高校からのメッセージ。2012年03月12日 22時25分02秒

3月10日に、私が勤務する高校で卒業式が行われました。昨年の卒業式は3月12日でした。3月11日の東日本大震災の翌日で、実施ができるのかどうか、すべきなのかどうかを真剣に論議していたことが昨日のように思い出されました。

実は、今年卒業した生徒達が1年生の時に担任をしていた先生が、現在、地元宮城県の志津川高校で教員をされています。旧担任ということで、わざわざ卒業式に来てくれました。マスコミなどでも繰り返し報道されていますが、志津川高校のある南三陸町は、東日本大震災で甚大な被害を受け、多数の死者・行方不明を出したところです。命の大切さ、被災地が抱えている課題などを生徒に伝える絶好の機会だと考え、震災の被害の実情を、是非とも生徒の前で話してほしいと思いました。卒業式の来賓として、少しでもいいから話すことが出来ないかと管理職にも話したのですが、残念ながら実現することが出来ませんでした。

とても悔しかったということもあり、彼の承諾を得た上で、彼が本校の教員に宛てた手紙を載せて、学年通信を作ろうと思いました。「厳粛な式」をすることが大切なのではなくて、その行事を通して生徒に何を伝えるのかということが大切なのだということを示したいと思いました。こういう教員としての私の意地を、若い教員達にも伝えたいと思い、今日の代休を返上して学年通信を作りました。

以下に、彼の手紙の一部を紹介します。困難な中でも、多くの方々の支援で、生徒達が希望を失わず進学を実現できたということ、将来に向かって前向きで明るい表情の中で卒業式ができたということを本当にうれしく思います。

震災を忘れずに、生かされていることの意味をきちんと心に刻み生きていくことの大切さを、しっかりと生徒達にも伝えていきたいと思います。

震災から1年が過ぎようとしております。私が住む町、登米市は沿岸部から20㎞ほど内陸にあります。道路の補修も急ピッチで進められ、今は震災以前と変わらない生活が送れております。

しかしながら、赴任先の南三陸町には、いまだに膨大な家屋や車のがれきが残され、復興と言えるほどの復旧が進んではおりません。志津川の以前の集落地は、家屋の基礎のみが残ったままの状態です。

以前所有していた土地の広さを知る根拠として、基礎部分のみ撤去できずにいるとのことです。近くに山は数多くあるものの、杉林で以前林業として使っていたであろう小道があるのみで、家などを建てるための平地は無く、居住地を移転するにもまだまだ膨大な時間がかかりそうです。

我が志津川高校の校庭の半分は、仮設住宅になっています。3分の1の生徒は仮設住宅に暮らしており、不自由で我慢をしながらの生活です。そのストレスが学校で現れている生徒も少なくなく、カウンセリングはだいたい予定が埋まっている状態が続いています。

そんな中でも、全国から、そして世界からの本当に多くの支援、激励の言葉を頂戴しました。資金面で進学をあきらめていた生徒たちには、さまざまな団体・企業から奨学金を頂きました。支えて頂いた皆さんの思いに報いるべく、子どもたちは懸命に頑張りました。

今年、私は3年生の進学クラス担任を務めましたが、5月からの授業で、出遅れた部分を必死の思いで努力し、大学、高等看護学校、専門学校など第一志望に見事合格を決めることができました。学校としての進路決定も、99%近くで例年以上の結果でした。

3月1日の卒業式は、悲しむというよりは、次の進路に向けて頑張ろうという前向きで、明るい表情で生徒達は参加し、旅立って行きました。今後は、南三陸町の復興のために、そして日本のために、最前線で活躍してくれるはずです。

私も一教員として生徒達に寄り添い、南三陸町、宮城のために、社会に貢献できる人間育成をモットーに頑張ってまいります。

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